「今いくよ」さんと言えば厚い化粧にほっそりとしたスタイルが特徴的で美人と言われることも多かったですよね。
今回は今いくよさんの若い頃がどのような感じだったのか、すっぴんについて紹介していきます。
今いくよの若い頃が美人過ぎる!昔の画像まとめ
今いくよさんは、1947年12月3日に京都府京都市でお生まれになりました。
本名は里谷正子さんといいます。
高校時代は京都明徳高等学校に通われ、同級生だった今くるよさんと共にソフトボール部に所属されていました。
いくよさんはセンター(キャプテン)、くるよさんはマネージャー(当初キャッチャー)を務め、3年生の時には全国大会で準優勝を果たすほどの活躍をされていたそうです。
高校卒業後は、一度はOLとして働かれていたようですが、1970年にその仕事を辞め、島田洋介・今喜多代さんに弟子入りをされました。
弟子入りをして間もない3ヶ月目に師匠に付いて行った巡業先で、急病で出られなくなった女流マジシャンの代役として初舞台を踏まれたのだとか。
その直後の「うめだ花月」の公演では、「スエ子・正子」のコンビ名で出演されています。
今いくよさんは痩せすぎているほど細い体型に、厚化粧が特徴的だったようですね。
長すぎる睫毛でパチパチと瞬きをしたり、首筋を掻いたりするのがクセだったとか。
舞台ではなかなかスポットライトが当たることがなく、下積み時代が長く続くことになります。
苦難の末のブレイク
下積み時代が続く中、1980年になってようやく『花王名人劇場』(関西テレビ)に出演するチャンスを掴みます。
しかし、吉本興業からは「これでウケなかったら最後」と通告されるほど、追い詰められた状況でした。
リハーサルやネタ見せの段階では全く受けなかったそうですが、本番になってくるよさんがお腹を叩いたところ、これが大ウケ。
おかげで2人の漫才はカットされずに全国放送されることになったのです。
このときの他の出演者には、やすきよなどの大御所が並んでいたそうですから、並大抵の圧力ではなかったでしょう。
この放送の翌日からは、テレビ、ラジオその他からの出演依頼が殺到したといいます。
長かった下積み時代を乗り越え、ようやく本格的な女流漫才師としての地位を確立したのです。
その後、1984年には上方漫才大賞を、1988年には花王名人大賞を受賞するなど、トップ芸人への仲間入りを果たしました。
人間関係とコンビ仲の良さ
後輩の面倒見がとてもよかったそうです。
過去には中川家やレギュラー、ジェットコースター(解散)、ミサイルマンらを食事に誘ったり、ラジオに定期的に出演させたりしていたとか。
また、毎年3月3日には、いくよさんとくるよさんが中心となって、吉本所属の女性芸人を集めた親睦会が行われていました。
ベテラン、若手問わず、交流を大切にされていたようですね。
舞台やテレビで見せる今いくよさんのビジュアルといえば、やはり厚化粧と派手な衣装が特徴的でした。
今いくよさんは、晩年に胃がんを患われました。
2014年9月に胃がんと診断され、治療に専念するため一時休業されています。
復帰後のいくよさんです。
同年12月3日には、舞台に復帰されましたが、その闘病生活はわずか半年ほど。
2015年5月28日、大阪府内の病院で67歳でお亡くなりになりました。
いくよさんが亡くなる17日前のなんばグランド花月での舞台が、生前最後の舞台出演となりました。
その舞台に立つ直前の楽屋での様子を映した「桃色つるべ〜お次の方どうぞ〜」(関西テレビ)が、いくよさんの最後のテレビ出演となったのです。
相方のくるよさんによると、いくよさんは亡くなる数日前も、看護師から名前を呼ばれた際に「里谷正子、28歳です!」とギャグを言って看護師らの笑いを取っていたのだとか。
最期の最期まで芸人魂を忘れなかったのですね。
いくよさんを亡くした後のインタビューでは、「日本一の相方とやってこられて私は、ほんまに幸せやった」と涙ながらに語っています。
40年以上に渡るコンビとしての絆の深さが伝わってきますね。
今いくよのすっぴん画像は?
今いくよさんのすっぴん画像についてはネット上には無いようです。
まとめ
今いくよさん、今くるよさん、お2人の漫才は上方漫才の歴史に輝かしい足跡を残しました。
癖のある声で巧みな掛け合いを繰り広げる姿は、多くの人々を笑顔にし、勇気づけてきました。
舞台の上では笑いを振りまいていましたが、舞台を降りればお互いを想い合う仲間であり、支え合うパートナーだったのですね。
お2人の漫才と人生は、後世の芸人たちにも語り継がれていくことでしょう。