鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した歌人・随筆家として知られる吉田兼好。
『徒然草』の作者として有名ですが、実は「吉田兼好」「卜部兼好」「兼好法師」と複数の名前で呼ばれています。
これらの名前の違いや、その背景にある歴史的経緯について詳しく見ていきましょう。
卜部兼好(うらべのかねよし)について
卜部兼好は、吉田兼好の本名です。
卜部氏は古代から神祇官の職を務める家系で、兼好もその一員でした。
『尊卑分脈』によると、卜部兼好の父は治部少輔卜部兼顕とされています。
兼好の生年は諸説ありますが、多くの資料で弘安6年(1283年)頃とされています。
若い頃は朝廷に仕え、後二条天皇に仕えていたとされています。
卜部兼好は宮廷に仕える官人としてのキャリアを歩んでいましたが、30歳頃に出家したとされています。
出家の理由については諸説あり、後二条天皇の崩御や、出世の道が絶たれたことなどが挙げられています。
出家後も特定の宗派に属さず、都のはずれに庵を建てて生活していたようです。
この時期に『徒然草』を執筆したと考えられています。
卜部兼好の経歴と活動
卜部兼好の経歴については、最近の研究で新たな説が提唱されています。
金沢文庫に残された文書の解析により、兼好が北条貞顕の被官として鎌倉と京都を往来していた可能性が指摘されています。
具体的には、以下のような事実が明らかになっています:
- 金沢文庫文書に「称名寺侍者、卜部兼好」という記述がある
- 兼好の兄(兼雄)が金沢貞顕の家臣だったという伝承がある
- 三代金沢(北条)貞顕が京都の六波羅探題時代、貞顕やその子顕助と交遊があった
- 京都の貞顕に、称名寺長老の書状を携え、使者をしていた
これらの事実から、兼好は出家以前の若い頃、金沢氏の被官として過ごし、鎌倉と京都を往来していたと考えられています。
また、京都の六波羅探題時代の貞顕との関係を通して、朝廷での交際圏を作っていったとされています。
この新説は、従来の「吉田神社の神職の家に生まれ、朝廷に仕えた」という説とは異なる経歴を示唆しています。
歴史研究の進展により、兼好の生涯についての理解が深まっていることがわかります。
兼好法師(けんこうほうし)について
兼好法師は、卜部兼好が出家後に名乗った法名です。
俗名の「兼好」を音読みして法名としたとされています。
出家後の兼好法師は、特定の寺院に所属せず、自由な生活を送っていました。
洛外山科の田地からの年貢米を生活の糧としていたようです。
兼好法師の文学活動
兼好法師は、出家後も活発な文学活動を続けていました。
1317年頃から歌人として名が知られるようになり、歌会への出席も多くなったとされています。
『徒然草』の執筆は1317年から1331年の間、40代後半から50代前半と推定されています。
この時期、兼好法師は鎌倉にも2回以上赴いているとされ、その経験が『徒然草』の内容にも反映されていると考えられます。
1345年頃には、勅撰集『風雅和歌集』の撰集に提供するため、『兼好法師自撰家集』(『兼好法師集』)を編集しています。
この自筆草稿本が現存しており、約280首の和歌が収められています。
兼好法師の和歌は、二条派風の平明優美な作品とされ、頓阿、浄弁、慶運とともに二条為世門下の四天王の一人と賛えられました。
勅撰集には『続千載集』『続後拾遺集』『風雅集』に各1首のほか、全部で18首が入集しています。
兼好法師の晩年
兼好法師の晩年については、以下のような活動が記録されています:
- 1344年:足利直義勧進の「高野山金剛三昧院奉納和歌」の作者となる
- 1346年:賢俊僧正に従って伊勢に下向
- 1348年:高師直に近侍
これらの活動から、晩年の兼好法師は足利幕府を中心とする武家方に接近していたことがうかがえます。
兼好法師の没年については諸説あり、確定されていません。
1350年4月の玄恵法印追善詩歌への参加が最後の確実な事跡とされています。
1352年以降に没したと推定されていますが、詳細は不明です。
吉田兼好(よしだけんこう)について
「吉田兼好」という名前は、実は後世に付けられたものです。
卜部家が吉田を称するようになったのは室町時代以降のことで、兼好の時代には「吉田」姓を名乗っていなかったとされています。
吉田兼好の名前の由来
吉田兼好という名前が広まった背景には、以下のような要因があります:
- 卜部家と吉田神社の関係:
卜部家は古くから吉田神社の神職を務めていました。
そのため、後世の人々が卜部兼好を「吉田兼好」と呼ぶようになったと考えられます。 - 吉田神道の影響:
15世紀に吉田兼倶が吉田神道を提唱し、過去の著名人を自分の先祖の弟子とする系図を作成しました。
これにより、卜部兼好も「吉田兼好」として扱われるようになった可能性があります。 - 江戸時代以降の俗称:
「吉田兼好」という名前は、特に江戸時代以降に広く使われるようになりました。
この時期に『徒然草』の人気が高まり、作者の名前として「吉田兼好」が定着したと考えられます。
吉田兼好の名前をめぐる議論
現在の歴史研究では、「吉田兼好」という名前は後世の捏造であるとする見方が主流です。
小川剛生氏の研究によれば、兼好に関する家系図は吉田神道の創始者・吉田兼倶による捏造の可能性が高いとされています。
このような研究成果を踏まえ、最近の日本史教育では「卜部兼好」または「兼好法師」という名前を使用するよう指導されることが多くなっています。
ただし、「吉田兼好」という名前は長年にわたって広く使用されてきたため、一般的な認知度は依然として高いのが現状です。
まとめ
吉田兼好、卜部兼好、兼好法師という三つの名前は、すべて同一人物を指しています。
それぞれの名前には以下のような意味があります:
- 卜部兼好:本名。卜部氏という神祇官の家系の出身であることを示しています。
- 兼好法師:出家後の法名。俗名の「兼好」を音読みしたものです。
- 吉田兼好:後世
に付けられた名前。卜部家と吉田神社の関係から生まれました。
これらの名前の違いは、兼好の生涯における立場の変化や、後世の人々による解釈の変遷を反映しています。
最新の歴史研究では、「吉田兼好」という名前の使用を避ける傾向にありますが、『徒然草』の作者としての知名度は依然として高いです。
兼好の生涯や経歴については、新たな資料の発見や研究の進展により、従来の通説とは異なる見方も提示されています。
今後も歴史研究の進展により、兼好についての理解がさらに深まっていくことが期待されます。