徳田虎雄の経歴学歴wikiがすごい!病気はALS?生い立ちが壮絶

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徳田虎雄さんは、日本の医療界と政治界に大きな影響を与えた人物です。

医療法人徳洲会を設立し、日本最大の民間病院グループに成長させた医師であり、後に衆議院議員としても活躍しました。

この記事では、徳田虎雄さんの経歴と学歴について詳しく解説します。

目次

徳田虎雄の生い立ちと学歴

徳田虎雄さんは1938年2月17日、兵庫県高砂市で生まれました。

幼少期を鹿児島県の離島である徳之島で過ごしました。

徳田虎雄さんが医師を志すきっかけとなったのは、幼い頃の悲しい体験でした。

小学校時代の原体験

小学3年生の時、徳田虎雄さんは弟を亡くしています。

夜中に具合が悪くなった弟のために、2キロの山野を走って医師を呼びに行きました。

しかし、医師が到着した時には既に弟は冷たくなっていたのです。

この体験が、後の「生命だけは平等だ」という徳田虎雄さんの理念につながりました。

高校時代の決断

徳田虎雄さんは1953年に徳之島高校(現・鹿児島県立徳之島高校)に入学しました。

しかし、大阪大学医学部を目指すため、1955年に大阪府立今宮高校2年生に編入しました。

この決断は、徳田虎雄さんの人生を大きく変えることになりました。

大学受験と浪人時代

徳田虎雄さんは大阪大学医学部を目指し、懸命に勉強しました。

2年間の浪人生活を送り、1日16時間という過酷な勉強スケジュールをこなしました。

風呂に行く回数を減らすなど、徹底した節制生活を送りました。

父親は先祖伝来の農地を切り売りして仕送りをしてくれたそうです。

大阪大学医学部時代

1959年、徳田虎雄さんは念願の大阪大学医学部に合格しました。

同年、妻・秀子さんと結婚しています。

大学時代、徳田虎雄さんはリーダーシップを発揮し、周囲の学生たちを引っ張る存在でした。

医学部構内によく現れては、学生たちを集めて話をしていたというエピソードもあります。

1965年、徳田虎雄さんは大阪大学医学部を卒業しました。

6年間の医学部生活を経て、いよいよ医師としてのキャリアをスタートさせることになります。

徳田虎雄の医師としてのキャリア

大学卒業後、徳田虎雄さんは医師としての第一歩を踏み出しました。

その後の活動は、日本の医療界に大きな影響を与えることになります。

医師国家試験合格と初期キャリア

1966年、徳田虎雄さんは医師国家試験に合格しました。

その後、大阪大学第2外科に入局し、研鑽を積みました。

大阪府の公立病院での勤務経験も積んでいます。

この時期の経験が、後の徳田虎雄さんの医療に対する考え方を形成しました。

徳田病院の開設

1973年、徳田虎雄さんは大阪府松原市に徳田病院(現・松原徳洲会病院)を開設しました。

この病院は、徳田虎雄さんの医療理念を具現化したものでした。

「生命だけは平等だ」という理念のもと、24時間365日オープンで救急患者を断らない方針を掲げました。

当時としては斬新な取り組みで、多くの注目を集めました。

医療法人徳洲会の設立

1975年、徳田虎雄さんは医療法人徳洲会を設立し、理事長に就任しました。

「徳洲」という名前は、徳田虎雄さんの故郷である徳之島に由来しています。

徳洲会は、徳田虎雄さんの医療理念を全国に広げる役割を果たしました。

徳洲会の拡大

徳洲会は急速に拡大し、全国に病院を展開していきました。

1976年には東京本部を開設し、1977年には岸和田徳洲会病院を開設しました。

1980年代後半には、徳洲会の病院数が11にまで増加しています。

2011年時点では、67の病院、44の診療所、315の福祉施設を運営するまでに成長しました。

徳田虎雄さんは、特に離島や僻地での医療提供に力を入れました。

自身の出身地である徳之島での経験から、医療アクセスの困難さを身をもって知っていたためです。

徳之島にもクリニックを設立し、地元住民のために尽力しました。

徳田虎雄の政治家としての活動

医療界での成功を収めた後、徳田虎雄さんは政界にも進出しました。

その活動は、医療政策に大きな影響を与えることになります。

衆議院議員への初当選

1990年、徳田虎雄さんは衆議院議員選挙に奄美群島区から立候補し、初当選を果たしました。

医療界の革命児として知られていた徳田虎雄さんの政界進出は、大きな話題を呼びました。

政治家としての活動

徳田虎雄さんは4期にわたって衆議院議員を務めました。

1995年には沖縄開発政務次官に就任し、沖縄の発展に尽力しました。

医療政策の改善や離島医療の充実に力を注ぎ、自身の経験を政策に反映させました。

政党「自由連合」の設立

徳田虎雄さんは政党「自由連合」の代表も務めました。

しかし、2010年夏に自由連合は解散届を総務大臣に提出し、正式に解散しています。

徳田虎雄の病気はALS

徳田虎雄さんの晩年は、病気との闘いの日々でした。

しかし、その中でも徳洲会の経営に関わり続けました。

ALSの発症と闘病生活

2002年、徳田虎雄さんは筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されました。

2005年には気管切開手術を受け、人工呼吸器を装着しました。

同年、政界からの引退を表明しています。

徳洲会への関与

病気と闘いながらも、徳田虎雄さんは徳洲会の経営に関わり続けました。

2013年に徳洲会理事長を退任するまで、重要な決定に関与し続けました。

2019年の時点では、もはや車椅子に乗れずにベッドに横たわったまま、目で意思を伝えることも困難な状態となっていました。

まとめ

徳田虎雄さんは、医療界と政治界の両方で大きな影響を与えた人物です。

「生命だけは平等だ」という理念のもと、徳洲会を日本最大の民間病院グループに成長させました。

政治家としても活躍し、医療政策の改善に尽力しました。

晩年は難病と闘いながらも、最後まで徳洲会の経営に関わり続けました。

徳田虎雄さんの生涯は、医療への情熱と強い意志に満ちたものでした。

その功績は、日本の医療界に大きな足跡を残しています。

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